8/09/2012

麻原彰晃にとってサリンテロは修行だったんじゃないか

森達也の「A3」を読んで、そんなことを思った。

超絶にたいくつなほど長い本だ。しかも冗長。数々の取材と著者の感想を、言葉の限りを尽くしてまくしたてるように書き綴っている。で、全編を通じて主張しているのは「麻原はすでに正常じゃなくなっているのに、なぜ治療もせずに裁判を続けているのだ。おかしいだろ」ってこと、つまり社会批判だ。読むのに時間ばかりかかったが、結局は主題はそこ。

それでも著者が取材したりオウム信者との手紙のやりとりから見えてきたのは、「麻原彰晃ってけっこう一生懸命に宗教に取り組んできたんだな」っていうことだ。史上類を見ないサリン・テロ事件も、結果の凶悪性とは裏腹に、本人にとって見ると「真面目」に救済達成のために取り組んだカルマのように見える。

オウムは様々なオタク要素の集合体である。ヨガ、超能力、アニメ、兵器、パソコン、それにノストラダムス、フリーメイソン... それらを肯定的に取り込んでいるところが特徴的だ。信者は麻原にマインド・コントロールされていたとの解釈がされているが、麻原自身も含めると、彼らを洗脳したのはテレビと言っていい。

そんなテレビ世代のオタク教団は、コスプレ的な「真似事」はできても、テロ組織のように緻密な計画ができてたようには見えない。彼らの行動は目の前に出された課題に対して修行として取り組むという態度に基づいている。言ってしまえば行き当たりばったりだ。その行動パターンは、麻原自身も例外ではなかった。

キーワードは「マハームドラー」だろう。本書ではカタカナしか記述がないが、「Mahamudra:大手印」と漢訳される。(音写では「摩訶母捺囉:まかぼだら」) チベット密教の長い歴史の中で多様な解釈がなされるようだが、浅学のため正確にはわからない。ただしオウム真理教内では執着を断つために修行課題と捉えられてたようだ。

麻原は信者の絶対的な指導者だったので、弟子に対して様々なマハームドラーを課していた。しかし、最終解脱者を標榜する麻原自身には、マハームドラーを課すべき指導者はいない。よって彼は自分の身に降りかかる事象そのものを、自身のマハームドラーと解釈したのだろう。だから、オウムの行動パターンはすべて対処的であって、計画的・戦略的ではない。

誤解を恐れずに言えば、オウムは善意の人間の集団だ。究極的目標は「救済」であって金銭的・権力的野望ではない。その善意の集団がこれだけ凶悪な事件を起こしすに至ったことを本当に理解しようとするならば、背後にある密教的な世界観を十分に(しかも客観的な眼をもって)勉強しなければとても無理だ。仮に麻原が法廷でしゃべれたとしても、彼の思考過程を正しく解釈はできないだろう。

仏教の「悟り」とは、あらゆる執着から解放されることだという。「仏」という漢字はBuddhaという概念のためだけにあり、それを「ほとけ」と訓じたのは、執着から「ほどけた」状態を意味するからだ。

現在、麻原は獄中で正気を失い、人との会話もできず糞尿もたれながしの状態にあるという。すべての執着から彼は開放され「ほとけ」の状態になっているというのも、彼が起こした事件の凶悪性からして皮肉なことだ。

5/07/2012

ダマされる人々

久々に本の感想文をふたつ。

最初が「毒婦 木嶋佳苗100日裁判傍聴記」。おもしろ人物のオンパレードである。そして「気が知れない」とはこのことだ。まず第一に、この本の著者:北原みのりはエロ雑誌編集者を経て現在女性向けアダルトグッズ販売の会社の代表をしている「コラムニスト」である。内容よりまず著者の経歴に興味がわく。いったい何がどうなって、この裁判を傍聴し、この本を執筆することになったのか。内容よりまずそっちの方が気になる。

事件の関係者のわけのわからなさといったらこれまたびっくり。初めて合って3日ほどで400万を渡してしまう男。睡眠薬をもられたかもしれないのに、もう一度もられてしまってたのかどうか確かめに再会しに行く男。逮捕直前に付き合い始めて、家の火災報知器をきれいに外されてしまっている男、などなど。木嶋佳苗のこれらの人物へのアプローチはかなりストレートだ。彼女に独特の「上手さ」があったにしろ、こんなことでころころとダマされてしまう人たちってなんなんだろう。

裁判からは、ニュースなどから受けていた「殺人事件」の陰惨な印象をまるで感じさせない。殺された被害者はどこまでも脳天気だ。というのも、被害者は自分が殺されるなどということには全く想像もせずに、幸せの絶頂のうちに亡くなっていってる。まるで殺人が流れ作業のひとつの工程として行われているようだ。殺されている側にも殺している側にも「痛み」が一切感じられない。いや、お気の毒ではあるが、被害者は別の意味で「イタい」。

著者の目線は私たちと同じように興味本位であり、その前で明らかにされていく「状況証拠」は笑いなしには人に語れない。「お前が殺してなくて、なんでこの人が死んでるんだ!」っていうくらい、状況証拠は笑っちゃうほどに説得力がある。なんでこんな女にひっかかっちゃうの? とも思うが、逆にそういうことにひっかかりやすい人をよく選別しているなぁと感心すらする。判決後も木嶋佳苗は朝日新聞の手記で自分表現に余念がないのだ。



2つ目、「もうダマされないための『科学』講義」。買ったのも読み終えたのも去年だけど。執筆者のうち菊池誠氏や片瀬久美子氏は原発事故のあとのtwitterでの発言をちらほら見ていたので興味をもった。というのも、科学とニセ科学、疑似科学についてよく発信される方々だから。

結論から言うと、科学とニセ科学、疑似科学ととは、論理的に区別するのはとても難しいということを再認識した。具体例をあげて、何が科学的で何が科学的なようでそうでないかを見分けるのはそれほど難しいことではない。ただ、一般論として抽象化された科学とニセ科学の境界線は見えてこない。

菊池氏は冒頭で科学とニセ科学の定義をあきらめてしまっている。片山氏も個別のケースについて、科学的な解説がつけられている怪しいものたちを列挙しているにすぎない。

伊勢田氏については、どんどんと新たな言葉を定義して簡単な内容をも難解にしているため、何をいいたいのかすら伝わらない。松永氏の考察は以上での思考ゲーム的で、私のtwitter上でのぼやき程度の内容にしか読めない。

結局のところ、「科学=正しい」という構図の勘違いをベースにしているので、こんな頓珍漢な内容の本が出来上がってしまうのではなかろうか。

1/08/2012

活字地金彫刻師 清水金之助さんを偲ぶ


昨年末12月26日に、ついこの前の7月に大田文化の森での実演会で、その「技」を披露してくださっていた清水金之助さんが亡くなったとの知らせがtwitter上で流れた。

子どものころから「活字」にはとても興味を持っていて、学生のころにイベントのパンフの制作をしたときなど、和文タイプやら写植レイアウトやらの作業に心躍らせていたような私だったが、「活字地金彫刻師」なんて存在、正直去年7月のこの実演を見て初めて知った。

どんな文字でも、知らない外国の文字ですら、サンプルに描かれているものがあれば頭の中にその反転画像をイメージし、下書きも無しに直接彫ってしまうその技には驚いた。同じ職場の仲間でも、こういう芸当ができる人は多くなかったというのだから、この能力は天から授かったものだったのだろう。しかも、仕事を一旦は引退し、40年ものブランクがあったにもかかわらず、そして89歳という年齢にもかかわらず、この細かい作業をやってのける。目と脳と手先の連動は「見事」という言葉だけではとても足りない。マシンだ、生けるマシンだ!

訃報に接し、ただただ残念。ここに7月の動画を掲載し、ご冥福をお祈りいたします。

↓ 清水金之助さんについて詳しくは
http://kinnosuke.exblog.jp/

ちなみに私の場合、彫刻に際して決して下書きをしなかった清水金之助さんが、本にサインしてくださる際にした下書きを持っているのが自慢。