2/24/2011

日本語ブルース

つくづく、コンピューターは日本人に使いにくいなぁと思った話。TranscendのMP3プレーヤー、M330っていうのを買ってみた。iTunesに入っているアルバムのいくつかをAmadeus Proというサウンド・エディターの変換機能を使ってmp3にしてこのM330にコピーしたところ、まぁ何の問題もなく再生され、再生中のファイル名も表示された、の・だ・が・・・・ 曲のタイトル、アーティスト名、アルバム名が文字化け表示!

ははぁーん、これはID3タグがちゃんとしてないんだな、と思い、ID3タグ編集用のTagr.appってフリーソフトをダウンロードしてきっちりと入れなおしてみた。でも治らない。

mp3ファイルはもともと音楽をMPEG1 Layer 3という形式でエンコードしたサウンド・ファイルだったが、MP3プレーヤーのソフトやハードがどんどん登場して、ファイル交換時に曲名やアーティスト名も一緒に受け渡せるようにフォーマット拡張されたのが"ID3タグ"だ。コンピューターの世界で多国語対応が標準的になったのはWindows 2000、Mac OS Xになってからである。ID3タグが出た段階はまだWindows 98、Mac OS 8の時代、当然日本語のことなんて考えられていない。また、当時のパソコンの日本語コードはShiftJISだ。日本語化といえばShiftJISが採用されるのが自然の流れだった。ちなみにインターネットで使用される日本語コードはいわゆる7bit JIS=ISO 2022JPだった時のことだ。

OSがネイティブに多国語されるのはその数年後、そしてそこで採用されたのはUnicodeである。UnicodeにはUTF-8とUTF-16があるのだが、ID3タグの多国語対応時に採用されたのはまずUTF16で、最新版でようやくUTF8がにも対応した。(ちなみにUTF-32もある。)

しかし、同じ文字を表すのになぜにこうも異なったコードが乱立してしまったんだろう。コンピューターの処理能力とともに歩んで来た歴史の積み重ねというのは重々承知している。だが、英語圏ではこんなにも使い分けやプログラム実装に悩んだりする必要がないことを考えると、日本人はそれだけで重たいハンディを背負っている。

JIS、ShiftJIS、EUCの使い分けがUnicodeの登場で簡単になるのかと思いきや、またもやUTF-8とUTF-16で悩まされるのか。複雑化する一方だ。普段、ユーザーとしてパソコンを使う分にはそれほど気にすることはないにしろ、文字化けなどに遭遇したとき、突然にこのあたりの知識を要求されるのがキツい。

ASCIIを使っている連中は文字化けという現象に無頓着だ。したがって、ID3編集ソフトを作った人も「文字コードの変換」なんて機能は実装してない。Tagr.appがまさにそうだ。OSがサポートしてる文字コードをファイルに書きこめばいいだけなんだから。

で、先のMP3プレーヤーでの文字化けの問題、ID3タグにUTF-8で日本語が書かれていたことで発生していた。この問題を解決できるのは日本人が作ったソフトしかないのはあたり前で、そういうソフトはMac用には見つからず、いろいろ試してようやく"Super TagEditor"というWindows用にたどり着いた。動作がいまいちなんだけど、なんとか無事に文字化けは解消された。

今回の件で、mp3のID3タグのことについて短期集中で勉強した。だが、iTunesとiPodを使っている限りこんなことは知らなくていいことだし、問題は特殊なことをやろうとしない限り顕在化しない。知識はあっても、それが金にならないという典型的なパターンだから悲しい。最終的にブログでぼやくわけだが、これすら時間の浪費でしかない。

2/16/2011

iPhoto 9.1.1 (iLife '11) でプリントができないなら Themeを消して再インストール

またまたiPhoto 9.1.1でトラブルに遭遇した。最近はめっきり写真をプリントすることがなくなったのでいつからこんなトラブルがあったのかわからないんだけど、写真を選んでファイル・メニューから「プリント」を選ぶとアラートが出て


「利用てきるテーマが見つかりません。: テーマが見つかりませんでした。少なくとも1つのテーマがインストールされるまでは、この機能は使用できません。」

と言われる。こ、これはAppleのHuman Interface Guidelinesで「ダメ」とされてる「A poorly written alert messages」にちょっとばかし説明を加えた程度のひどいアラートだ。テーマをどうしたらインストールできるのかがわからない上、「OK」を押してプリントをやめるしかない。

そもそもテーマってなんだよ。ってことでiPhotoのヘルプを見ようとしたら


「HVURLHandlerErrorDomain エラー 1002」

これまた完全な「A poorly written alert message」が堂々と登場。結局頼れるのはGoogle様ということで解決法を探った。

まずはプリントが出来ない件

  • "/Library/Application Support/iPhoto/Theme" を削除
  • ”/Application” からiPhotoを削除
  • iLife '11のディスクからiPhotoをインストール
  • iPhotoを最新版にアップグレード
これで解決。iLife '11のディスクでインストールされるのがiPhoto Ver.9.0の場合、立ち上げるとライブラリを消してしまうバグがあるようなので、立ち上げずにどんどん最新版にアップデートした方が良いだろう。私の場合、TimeMachineでバックアップがあるので躊躇せずに再インストールしたが、一般的には"~/Pictures/iPhoto Library が消えないようにバックアップしておいた方がいい。

次、ヘルプが出ない件

  • "~/Library/Preferences/com.apple.help.plist" を削除
  • 一旦ログアウト
  • 再度ログイン

で解決。このヘルプの問題は日本だけで発生する問題らしい。Appleの開発とQAはほぼCupertinoで行われているので、アメリカ人から文句の来てないようなバグは、知らないので対処されないまま放置されてしまうみたいだ。

2/02/2011

「昔日の客」とメディアの価値

元大田区役所のあったあたり、大森日赤前のバス停のすぐ目の前に「山王書房」という古本屋がかつてあった。子供の頃から小説など全く読むことのない私には縁のない店だったが、となりの叔父などはよく行ってはそこの主人の長話につかまってたらしい。叔父の家にはいまでもそのお宅から年賀状が届くという。私の父も入二の教師をやっているころに寄ったことがあると言っていた。

その山王書房の主人によるエッセイ集がこの「昔日の客」だ。著者は残念なことに本書の初版が出版される前に60歳にも満たない生涯を終えている。昭和53年に出版されたこの本はしばらく絶版状態だったが、昨年(平成22年)に若干の手直しがされた上で復刻した。たかが大森の古本屋の主人が書いた本なれどこの本を求める人はそこそこあったようで、手元のものはすでに第二版となっていた。

昔の馬込の様子などが綴られているというのが本書を手にした動機で、私自身は特に文学に興味があるわけではない。なので、本書に登場する作家については何ひとつ知識がないままに読んだ。文章も読みやすく、この古本屋の主人の変人ぶりと書籍への愛情、作家への尊敬がにじみ出ていた。作家と読者をつなぐパイプ役として、双方から愛されていた様子も伝わってきた。

私が子供の頃は、うちのそばにも「貸本」をやっている馬込書房という店があった。バス通りに市場があって、その日の夕飯の買い物はその日にしていた時代だ。世の中はこのあと加速して変化して豊かになっていくのだが、当時、本は「貸本」で読むほどに庶民にとって高額なメディアだったのか、と改めて思う。当時子供で自分でお金を出して本を買うことはなかったので、実感としてはよくわからない。でもそうだったに違いない。「古本」の商売もそんな時代だったからこそ成り立っており、どれだけ良い本を揃えることができるかは、古本屋の主人の目利きにかかっていた。

「昔日の客」を読んで驚くのは、大森駅からさらにバスに乗らないと来られないような場所にある古本屋に、吉祥寺やら藤沢やら遠方から客がやってくること。本は高かったばかりでなく貴重で、体力使って探しまわらないと手に入らないようなものだった。そんな事情が、古本の価値を高め、さらに古本屋の力量の価値も上げていたということだ。

「昔日の客」は、今日で言えばブログに書かれているような内容だ。おおよそ散文なんてそんなもんだ。現代なら書いた時点ですぐに公開して、推敲を重ねた結果を反映させるのもリアルタイムにできる上、書いた内容についても一方通行でなく、読み手からのレスポンスもすぐに受け取れる。環境はコンテンツを創る側にとっても受ける側にとっても劇的に便利で安くなった。Googleで検索すれば次の瞬間には欲しかった物が手元に入る。「本」であってもアマゾンからたいていのものが翌日に届くし、希少本さえ体力を使わずに探し出すことができる。便利さと引き換えに「古本屋」という商売はリサイクルとしての価値しかなくなってしまった。品揃えとか目利きとかの価値もほぼ壊滅状態だ。

かつて「本」に書かれているコンテンツを得るためには、情報を持っている人と接し、実際にからだを動かして移動し、何件も本屋を回らなければならなかった。コンテンツの価値が変わらないとすれば、そのコンテンツを収録している本というメディアの価格以外に様々なコストを払わなければならなかった。インターネットによってメディア以外のコストはほとんどゼロになり、動く金の量が激減した。そして、様々な商売が消えていった。今や「本」というメディア自体のコストすらなくなろうとしている。

もはや、コンテンツについては作者とオーディエンスが直接向き合う時代になった。動く金の量が極端に減ってしまった。出版不況と言われているが、それは決して「活字離れ」なんてことが原因ではなく、メディア流通の価値がどんどん下がってしまった結果であり、CDが売れなくなったのとほぼ同じ理屈があてはまる。文学も音楽もコピーされなければ伝わらない。コピーがしにくければ人々はお金を出すが、自分で簡単にコピーできるものにお金は払わない。コピーさせないような技術は結局海賊版をはびこらせる。メディアでお金が取れない時代にコンテンツの作者は伝統的なビジネス・モデルそのものを考えなおさなければ生き残れない。

「昔日の客」を読みながら、出版業というのが本というメディアのおかげで潤うことができたのは、人類の歴史でほんの一瞬だったのかな、と思った。